5 源氏、尼にもう少し待つよう諭される
夜明けの空は十二分に霞んで、山の鳥声がどこで啼くとなしに多く聞こえてきた。都人には名のわかりにくい木や草の花が多く咲き多く地に散っていた。こんな深山の錦の上へ鹿が出て来たりするのも珍しいながめで、源氏は病苦からまったく解放されたのである1。聖人は動くことも容易でない老体であったが、源氏のために僧都の坊へ来て護身の法を行なったりしていた。嗄々な所々が消えるような声で経を読んでいるのが身にしみもし、尊くも思われた。経は陀羅尼2である。
京から源氏の迎えの一行が山へ着いて、病気の全快された喜びが述べられ、御所のお使いも来た。僧都は珍客のためによい菓子を種々作らせ、渓間へまでも珍しい料理の材料を求めに人を出して饗応に骨を折った。
「まだ今年じゅうは山籠りのお誓いがしてあって、お帰りの際に京までお送りしたいのができませんから、かえって御訪問が恨めしく思われるかもしれません」
などと言いながら僧都は源氏に酒をすすめた。
「山の風景に十分愛着を感じているのですが、陛下に御心配をおかけ申すのももったいないことですから、またもう一度、この花の咲いているうちに参りましょう、
山さくら、画像は吉野
宮人に行きて語らん山ざくら3風よりさきに来ても見るべく」
歌の発声も態度もみごとな源氏であった。僧都が、
うどんげとされているもののうち、フサナリイチジク(Ficus racemosa)の写真。Wikipediaより引用。イチジクは可食部が花(隠頭花序)なので、花が咲いているように見えないが、実に見える部分はすべて花。実の内側に雌しべがある。原種は虫媒で、中に虫が入るが、日本にはその虫(蜂)がおらず、花粉の媒介が起こらない。
優曇華4の花まち得たるここちして深山桜に目こそ移らね
と言うと源氏は微笑しながら、
「長い間にまれに一度咲くという花は御覧になることが困難でしょう。私とは違います」
と言っていた。巌窟の聖人は酒杯を得て、
奥山の松の戸ぼそを稀に開けてまだ見ぬ花の顔を見るかな
と言って泣きながら源氏をながめていた。聖人は源氏を護る法のこめられてある独鈷5を献上した。それを見て僧都は聖徳太子が百済の国からお得になった金剛子の数珠6に宝玉の飾りのついたのを、その当時のいかにも日本の物らしくない箱に入れたままで薄物の袋に包んだのを五葉の木の枝につけた物と、紺瑠璃7などの宝石の壺へ薬を詰めた幾個かを藤や桜の枝につけた物と、山寺の僧都の贈り物らしい物を出した。源氏は巌窟の聖人をはじめとして、上の寺で経を読んだ僧たちへの布施の品々、料理の詰め合わせなどを京へ取りにやってあったので、それらが届いた時、山の仕事をする下級労働者までが皆相当な贈り物を受けたのである8。なお僧都の堂で誦経をしてもらうための寄進もして、山を源氏の立って行く前に、僧都は姉の所に行って源氏から頼まれた話を取り次ぎしたが、
瑠璃の壺:奈良・正倉院
「今のところでは何ともお返辞の申しようがありません。御縁がもしありましたならもう四、五年して改めておっしゃってくだすったら」
と尼君は言うだけだった。源氏は前夜聞いたのと同じような返辞を僧都から伝えられて自身の気持ちの理解されないことを歎いた。手紙を僧都の召使の小童に持たせてやった。
夕まぐれほのかに花の色を見て今朝は霞の立ちぞわづらふ
という歌である。返歌は、
まことにや花のほとりは立ち憂きと霞むる空のけしきをも見ん
こうだった。貴女らしい品のよい手で飾りけなしに書いてあった。
マラリアなら症状が強くなったり弱くなったりするが、発病時には覗き見などできないほど熱が出るはず。↩︎
サンスクリット語の音読になるお経のこと。おそらく密教系だと思う。曹洞宗には大非心陀羅尼というのがあるようだが、この時点では曹洞宗は日本にはまだ入ってきていない(13世紀)。↩︎
3月末の出来事なので、ちょっと早いように思う。旧暦なら今の1月ぐらいだが…。与謝野晶子が新暦に書き直しているのかも。↩︎
うどんげ。3000年に1度花が咲くとされる。Wikipediaにはマメ科トビカズラ属のアイラトビカズラ、クワ科イチジク属のフサナリイチジク、バショウ科のバショウのどれかを指す、といった形で書かれている。全然種が違うが…。↩︎
密教で用いられる法具。真言密教も天台密教もこの頃には成立しているので、どちらかは分からない。鞍馬寺は鑑真の系譜で律宗から始まり、天台宗の影響を強く受けたようなので、鞍馬寺が北山なら天台密教なのかもしれない。↩︎
こんるり。紺色のラピスラズリのこと。ラピスラズリの壺は貴重すぎるので、ガラスのことかもしれない。が、この当時はガラスはシルクロード経由でしか手に入らない上、遣唐使どころか唐もないので(宋)なかなか手に入らなかったはず。↩︎
源氏物語を通じて源氏が仕事をして収入を得ている表現はないが、ずいぶんな資産家らしい。当時の事務次官クラスなので、高官の賃金が明治初期なみに高かったのかもしれない。↩︎